仕事を覚えるのは自分がやるしかない。
にんじんのシャトー切りで自信をつけたわけではないが「見て覚える」というのは「やり方」をまず覚え「それはなぜそうなるのか」ということを自分なりに分解をして、技術の組み合わせを理解する。言葉では簡単だが「洗い場」は幸いにして暇である。「じっくり」と先輩の手先を見ることができた。
※写真はイメージです
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数多く「オムレツ」の注文が入る。卵、4ヶを割って塩、胡椒をする、「さやばし」で15〜16回かき混ぜる。時には20〜25回ぐらいかき混ぜている。この違いは「なんだろう」という「ギモン」?がおこる。まず、それを調べることにする。先輩が割った「卵」の殻を片付けるふりをして「手元」にもってくる。殻には卵白が少し付いているので、これを手の平にのせてみると、「しっかりした玉子」と「だらりとした玉子」であることに気がついたのは、50ヶ程の割られた玉子の殻とのつきあいの結果であった。
「フライパン」の温度を気にしている。「ガス台」にのせたり、はずしたり、いよいよ卵を入れる時には、まずパターの小さな「カタマリ」が入り、そして卵が一気に入る。ハシで始めゆっくり、次に早くかき混ぜると、フライパンはやや「ナナメ」にして向かう側にまとめられたと思ったら、フライパンを持ちあげ右手の甲で「トントン」とたたくと「オムレツ」は生きているような動きで一回転する。この時「アクロバット」をみるようなものだ。なんと「オムレツ」が宙をとんで左手に持った皿の上に落ちてきたのである。先輩は「ソース」をかけると「野菜の窓口」に持っていき「オムレツシャスール…」とどなった。「うーん」
と目玉がひっくり返る程、その技術に驚いた。
驚くと、それは自分でもやってみたくなる。今なら「オムレツ」の作り方など「料理の本」には親切、丁寧に書かれているので「ある程度」の知識は得ることができるが「なにしろ」昭和29年……そんな料理書があるはずがない。たとえ、あったところで買うお金はない。
ここで気になることがあった。先輩は使用したフライパンを決して「洗い場」には出さないことであった。フライパンを丁寧に布で拭くと、自分の棚の上に大事そうにおく。注文があると、この「フライパン」を取り出して作るのであった。その「ギモン」を聞くことができれば簡単なのであろうが、それを聞く「フンイキ」はないのである。
「総あがり」をして、そして後に入って来たシェフとその仲間たちは無表情であった。近づきがたい「フンイキ」をもった集団は、一ヶ月もたたないうちに風のごとく去っていったので名前もわからない「まぼろしの先輩」たちであったが、その技術は「すばらしく」「マホウ」であり、手品のようであった。
「オムレツ」を作りたい、あのふんわりした美味しそうなオムレツを自分の手で作ってみたいと思う気持ちは大きくふくらんでいったのである。
まず「くるり」と一回転するあの動きを「オムレツ」に与えるのは右手の甲でたたくフライパンにあると気がつくまでに何回、いや何ヶの「オムレツ」を見ただろうか。軽くたたくと中の「オムレツ」が動いているのに気がつくと「朝早くのトレーニング」が始まる。
とはいえ、自分の薄給ではとても卵を買ってそれで「オムレツ」をつくることはできないし、「ガス」を勝手に点火することも許されることではなかった。
「デコボコ」の、普段使用されていない小さなフライパンを見つけ、これで「トレーニング」をすることになった。フライパンの中の「オムレツ」を布でぬらして丸めたものに替えての「フライパン」たたきの練習であった。
はじめは、その「布のかたまり」がフライパンから飛び出たり横になったりして「くるり」と一回転するまでにはいかず、その難しさを思い知らされるのであった。どうしても強くたたくので、手の甲はやがて真っ赤になりシビレてくる。本業の洗い場に支障をもたらしてはいけないので「シビレ」が来るとストップすることにした。「力」ちから…が入り過ぎているうちは「ダメ」で、弱い「力」でやるとうまく回るようになる。そこまでくるのに何日かかったことであろうか……。
軽く「ボン」とたたくと「くるり」とまわる。
それはちょっとしたフライパンとのタイミングであった。イミテーションである「布」のオムレツが回ると、あの宙を飛ぶ「オムレツ」である。
これは割合いと早くマスターすることができた。ようするに、皿でタイミングを計り、フライパンをあげて、「オムレツ」を宙に置き去りにして、これを皿で受け取る。これは面白い程うまく受けることができた。しかし、形のよいオムレツが出来てからのことで、まずフライパンから皿に「オムレツ」を移すのは静かに「かぶせれば」よいというのも練習の中で取り入れた。
先輩の使用する「オムレツ」のフライパンは「こげつかない」。手入れのよくされているフライパンである。
これも、使用されていなかったデコボコのフライパンに布をあてがい、上からたたいてデコボコを直し、「油」でなじませている先輩の「やり方」のまねをして手入れをする。
「くる日」もくる日もフライパンの手入れをする。
手入れは、「フライパン」に熱を加え、「けむり」が出てくると「火」をとめ、使い古しの脂を入れてから全体に脂がつくようにフライパンをまわし、そのあと布で拭き取る。この「フライパン」の手入れは、くり返すことによって「コゲ」つかない「使いやすい」ものになっていくのである。
「ひま」な時間に、捨てられていた「フライパン」を手入れするのを見て、先輩たちは見ていても何も言わなかった。「洗い場」の延長のように見えたのだと思う。
「フライパン」は生き返ったのである。先輩のフライパンのように、「鏡」のように顔が写るように光り輝いている。あとは「焼いてオムレツ」を作ることであった。
そのチャンスは意外と早くきたのである。
「総あがり」でシェフはじめ「コック集団」が辞めると、どうしてもコック不足の空白の日ができる。あとに残った進駐軍からやってきた「洋食屋コック」たちだけでは仕事が追いつかないのである。 メニューはある程度しぼられていても「オムレツ」はポピュラーであり、注文はどんどんと入ってくるのである。
残っているコックたちが自分の仕事で手一杯の有様であったから、「走り使い並み」で「洗い場」の私にも仕事がまわってきた。
「サラダ盛り合わせ」、「オードヴルの盛り合わせ」、「サラダとチーズ」など、皿に盛り付けるだけのものは「やれ」ということで飛びまわって仕事をやった。始めのうちはひとつひとつ見せていたが「おめーはセンスがよいぞ」と誉められ盛りつけると、「料理出し口」に持っていき「へい、サラダデース」「オードヴルデスヨー」と出すと、ウェイターの人が「にっこり」笑って「メルシィーシェフ」とくる。もう一人前になったようなものだ。
「シェフ、オムレツがまだなんだよ、早くしてよ」…と、困った声を出している。ストーブ前には誰もいない。見ている人も誰もいない。自分がやろうとしていることがわかっていない。つい卵を割っていた。フライパンをあたため、バターをのせ「ジューという音」をさせて卵を焼き、向こう側にまとめると「ポンポン」とフライパンをたたく。「オムレツ」は素直にまわってくれた。大事に大事に皿にのせ、トマトソースをかけて「料理出し口」にドキドキしながら出すと、「メルシィーボークーシェフ、サンキュー」と何やらさかんに感謝されているような気分である。
この日を境にして、私は「洗い場」からいきなりサラダ場係りになったのである。
コック不足がもたらした私の出世であった。 「オムレツ」を焼くのも私の仕事となったのである。
「見ていて覚える」を絵に描いたようなもので、「先へ」「先へ」と興味をもって覚えようとしていたことが実を結んだのである。
今、食育のため小学生、中学生など子供たちの前でこの「宙を飛ぶオムレツ」をやってみせると拍手かっさいをあびるのである。
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