広間には、芸能関係の出演者が入れ替わりやってきて、有名な歌手も顔をみることができた。温泉には、となりの国技館から相撲とりがやってくるので、風呂の中で裸のつきあいになる。大きな身体は洗い場の鏡には一部しか入らず、自分たちの身体の向こうに片足だけが写っているのも面白いバランスであった。 休憩時間に塀を乗り越えて国技館に入り、相撲学校の「ケイコ」を見るのも楽しみであった。となり同志ということで守衛も見てみぬふりをしてくれるので、国技館で行われる相撲の他、プロレスやボクシングを見ることも出来た。 今ではそんなことはとても出来ないことだろうが、当時は万事が「おおざっぱ」であった。コック服を着たまま通路から試合が見ていられるのであるから、この職場での仕事ぶりは実に余裕があり、のんびりとした所があった。しかし、国技館へ出かけるのは「塀」をのりこえるばかりではなく、出前を届けることもあったのでこれも楽しみのひとつであった。 本場所では、さすがに出前をとることはなかったが、大関時代の栃錦関に、「ステーキ定食」を運んだことがある。4人前の切り身ということで1kgのロース肉を焼き、鉄板にのせて「ジュー」という焼き音をたてながら走って届けたことがある。2種類のソースを添えていったが、大関は両方をかけて食べていた。 さすがに、プロレスとボクシングの選手には、出前はなかったが、世界選手権も通路で見ることができた。 大男のプロレスラーが、リング場の中以外であばれるといけないので、若い者が二人がかりでもつ「くさり」につながれて引っ張られるようにして退場してきたが、支度部屋に入ってきたら自分でその「くさり」を首から外したのを見た時は、「あれ?ー」って拍子抜けしたことを思い出したが、おおいに楽しませてくれた舞台から降りればこれでよいのだろう。その後、国技館は両国へ移っていった。我が愛した職場は今はない。
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