料理長の机の引き出しの中には「古びたノート」があり、何枚かのスケッチがされた紙がはさんである。料理長はこれを宝物のように大切にしていて、一度だけであるが見せてもらったことがある。それは、秋山さんが料理長に「メニュー」の説明をしながら、盛り付け方法などを「ラフ」に書いたものである。 「鉛筆画」であるが、それらはすばらしいデッサンであった。ある時には「車海老」が「メニュー」の空いている部分に描かれていた。「サザエ」や「スズキ」もあった。料理長や部長と話しをしながら描かれたそれらの絵は、今思えば大変に値打ちのあるものであったが、当時の自分には秋山さんが「どれ程すばらしい料理人」であったか、あまり知らなかったのである。 千疋屋のフランス料理店に勤めることになって、業界のことが少しずつ分かるようになってきたのであるが、暇を見つけては「語学」を勉強したり、「山本直文先生」に合ったりしたことが、一番のコックの世界を知る「チャンス」に結びついたようである。しかし、あまりにも身近で出会う秋山徳蔵さんのことは知らなかったのが事実である。 この秋山さんの事はその後、書物やテレビなどでも紹介され「天皇陛下の料理番」として知られるようになったのはそれから2、3年後であった。 これも書物の中で知った事であるが、秋山さんは、まだ日本人がヨーロッパへの渡航も難しいころ、パリのホテルの調理場で「東洋人」、すなわち肌の色の違う人種として周囲の目にさらされ、「バカ」にされながら「料理」の修行を続けていた事を知って、とても「あののんびりとした老人」からそれらの事を見て取れなかった事がすごく残念に思う事と、偉大なる人は「平凡に見える」ことが「人生には大切なのだ」と分かるまでには相当な時間がかかったのである。 <10年後> エスコフィエ協会の博物館長のラモーさんとご一緒に「皇居」に入り、この当時の料理長に案内されて「ゆっくり」と見せていただいた。調理場の「随所」に秋山さんの「面影」が残るような気がしたのも、お元気であった秋山さんを見ていたためであろうと、「古い道具」や今はなくなってしまったであろう、お皿を洗うための「オケ」や「ハケ」(…一枚ずつ手洗いをするためのもの…ちなみに少しでも傷の付いた皿は完全に割って処分するとのこと…)など、皇居ならではのお話を伺う事ができたのも、うれしい思い出となって残ったのである。 よい料理人はスケッチがうまいのである。目下自分も勉強中である。
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