2010.12.09 |
Bistecca di cinghiale alla cacciatora |
【宮本武蔵】吉川英治著を無事に読み終え、【エチ先生と『銀の匙』 の子どもたち 奇跡の教室 伝説の灘校国語教師・橋本武の流儀】 伊藤氏貴著を読み始めました。
その本のある文脈の中で語られている、“奇跡”についての一節があります。 そこで語られていることが今日の出来事、さらにはこれまでの 事など重なり合い共鳴して心の奥のほうにスーッと沈んで いくような感覚を味わいました。 『奇跡・・・短時間の生成物ではなくいくつかの偶然、期間(時間)を へて醸成・・・いつか『ポン!』と花を咲かせる。』 そんな様な一節がありまして。
どんな分野でも成り立っている根本的な部分はどれも皆同じで シンプルに出来ていて近道はないよと。
今でこそ、なんとなくそんなフレーズも実感として湧いてくるように なってきました。
振り返ってみるとこの世界に入って四半世紀。 まだまだよくわからないことだらけ。
だいぶんと自分らしいなぁと思えるような料理が出来るように なってきたのがやっと最近。
途中で止めていたらこの感覚は味わえなかったと想うと複雑です。
|
|
|
【説得力のある料理を作る。】最近自分に言い聞かせている言葉。
|
|
|
定期的に来られているお客様の一組の方が昨夜お見えになり、帰りがけに 言われた言葉・・・(最近月に1組くらい、お馴染みの方にそういった 声をかけて頂きます。そんな方々は、こちらがぐっと来るようなことを 言われていくんです。
青さんに“さっき泣いてました。”なんて言われてしまいます。 年ですかね。)
で、昨夜帰りがけに言われたのは、『あなたは、今料理人としてピークを 迎えていて、自分はこれから食べるパワーは徐々に落ちていく年齢に差し掛 かっています。あと何年お付き合いできるかわかりませんが、これからも どうぞよろしく。』・・・・・と。 のぼせてしまって一字一句あっているかわかりませんが、 一晩たち、その時のことを思い出しながらたどりながら綴っています。
|
|
|
先月また別のお馴染みの方に言われた言葉『1番2番という表現でなく ここにしかない料理ですね。』と。そのときも青さんにたしなめられました。
【Tradizionale】(こんなフレーズが出てくると長くなりそうですが) 自分が渡伊した頃はまだ日本のイタリア料理業界・インポーター・ お客さんを含むマーケット、全てにおいてまだ未熟な時代でした。
≪少し、脱線ついでに最近読んだ伊丹十三さんのエッセイで、 本の題名は今パッとでてきませんが、フランスやイタリアのことを、 昭和40年初頭にあれだけ違わずに理解されていた人だったと 最近になって知りました。 それに準じて映画『タンポポ』のレストランの場面など揶揄というか ブラックユーモアというか、今観返しても古びてなく今日でもありそうな 場面だったりします。 と、(エチ先生・・・)の本に【速読】と【味読】を対比させた箇所がありす。≫
修行していた当時、フランスで起きた(ヌーヴェル・キュイジーヌ) の波がイタリアに流れ込んでその中でイタリア各地に(ヌオーヴァ・クッチーナ) を提唱するリストランテがあられ始めた頃でした。 そんな頃にそういった流れの外で(その当時、仲間内で名前が挙がってくる レストランテは20ー30件ほどが中部以北に点在しているのみ) それも複数年同じ店で働くというのは、当時としてはあまりなかったようで 数人の仲間に「北に上がってくれば?」であったり「どうして一つの お店にそんなに長く居るの?」とか言われて自分の中では、判らないながらも 自分の納得できる形で限られたイタリアでの時間を過ごそう。 人は人だし。と、その当時は漠然とそう想っていました。
時が経ち、レストランを取り巻く環境がその後驚くほど変化してきました。 10年一昔といいますが、その頃一世を風靡していたお店で今残っている お店のが少ない現実を目の当たりにしたり、変に時代を追っかけすぎて それこそ変になって行ったり。
時代に乗れてない分、自分らしく仕事が出来てきたような気がしますし、 これだけ食材がよくなってくると、いかにこの土地の特色を生かした オリジナリティーのある仕事をしているかということをお客様が求めているか。 という時代になってきていると、日々お店でお客様との関係の中で気付か していただくことが多いか。
そういった我々を取り巻く食環境を通して修行時代を振り返って 当時判らなかった事が、今になってようやく見えてくることがいかに多いか 今更ながら当時教えていただいた諸先輩方にあらためて【ごめんなさい、 そしてありがとうございます。】と、本当に思います。
そして当時イタリアでの生活を通して見てきた伝統料理や長く生活したからこそ 関われたイタリア人の仲間に混ぜてもえたからこそ見えたことが、 今になって自分の中から滲み出てくるものがあり、幾つかのそういった確信 を掴んだお皿の成り立ちについての考え方や、当時の生活や各地を 旅行した時に感じた匂い、心の疼き、肌感などが今蘇る感覚で 料理に取り組むようになってきました。
ときたま《半田弁で(ときどき)》何か降りてくるような感覚のときがありまして。 『ポン!』と花を咲かせるように降りてきた料理。
【Bistecca di cinghiale alla cacciatora】
野趣溢れる丹波産猪の骨付きロースをビステッカにしてカチャトーラソースを合わせます。
|
|