2019.10.31
今日の格言

昨年末に取引先の精肉店からいただいた日めくりのカレンダーが何気に重宝しています。旧暦や今日は何の日であるとか、日々オープンな引きこもり状態で仕事をしているので、今日は何日?であるとか、今日何曜日?なんていうのは日常茶飯事。自分の仕事場の立ち位置のすぐ横に掛けてあるので、ちょっとした覚えごとや仕込みのメモなどにも使え、それでいて日めくりなので今日済んでしまったことは破って忘れれます。その日一日終われば終わり。きれいさっぱりです。気持ちの切り替えにもなっています。

今日は結婚記念日!26年です。

昼はささやかに二人で乾杯!さて、なににでしょう?

 

 

で。ちょうど今日一日終わり日めくりを破って、何気なく『今日と明日の格言どうなっとるんだろう』って見てみると、なんか意味深。ドキッとしました。言い当てられた感じ。

好きなたとえですが、孫悟空昔のマチャアキと夏目雅子さんの方のTV番組ですが、高峰三枝子さん扮するお釈迦様に孫悟空(マチャアキ)が、お釈迦様の手の平からキン斗雲に乗って逃げ切れたら許す。ってなって、しばらく飛び続け、もうだいぶ来たからと、そこにあった柱に落書きとおしっこをかけて、再びお釈迦様の元に戻って『どんなもんだい』なんてやったら『どこまで行ったのかい』『ずっと遠いところのこんな太い柱があるところまで行ってきた』『それはこんな柱だったのかい』ってお釈迦様の手を掲げたらそこに落書きがしてあった。ってくだりがあって、男なんて皆奥さんの手のひらでバタバタしてるだけなんだな。って・・・。

【人生は己を探す旅である】

 

また明日から頑張ります。いろいろと。【千里の道も一歩から】ですから。


2019.10.25
Spezzatino di pollo

今週末に開催する料理講習会の試作“甲斐路軍鶏骨付きモモ肉のスペッツァティーノ バターライス添え”で、マレオ村Arbergo del soleの賄料理です。

かれこれ料理講習会を開催してはや6年です。年5回開催として、3品作りますので、6年×5回×3品=90品!単純計算でです。よくもネタがあったもんだと我ながら感心しています。一応、どっかで見つけてきたレシピではなく、修業時代に経験してきたレシピから、特にほぼイタリア生活5年の中で見てきた。経験してきた。食べてきた。もののみです。それに、毎回の講習会が自分に課しているのはご自宅で作るつくらないは別として、調理実習約1時間で、季節の身近に入手できる食材で、ぱっと作る。で。美味しいこと。の、一発勝負です。

よくもまあネタが続いたもんだと、我ながら感心しています。もちろん産みの苦しみ(何度も今まで書いてきたメモ帳を見直してきました)は年を追うごとにタイトになっては来ていますが、自分の勉強にもなるので、しんどくはあっても来てくださったお客様のダイレクトな反応が感じれるので、毎回疲れ果ててはいるのですが、かなり充実感を味わえています。

今回の甲斐路軍鶏を使った家庭料理“スペッツァティーノ”いたってシンプルな料理の分、レシピの確認はいつものことながら、もしご家庭で作られるときのブレを考慮して講習に掛けてお話をさせていただいているつもりなのですが、いろいろ気になるポイントがあり今週3回賄いで食べています。一日おきのペースです。

と言うのも、もともとこの講習会に肉料理をかけることはあまりありません。それは、肉自体がイタリアのものと全く味の構成(肥育の仕方が違います)ですから、特にイタリアの賄料理であるとか、イタリアの家庭で食べられている言ってみれば手軽な。チャチャっと。みたいな調理法に見合った肉が見当たらないからです。以前講習に掛けた肉料理はフランス産骨付き仔牛であるとか野生の雉であるとか、になってしまいます。唯一日本の家禽類で使用できると言いますか、同じような風合いに仕上げることができるのが鶏料理です。ただし、地鶏になります。やはり歴史がそれを証明しているからでしょうか?江戸時代食用とされていたのは唯一鶏で。兎は立たせて二本足って数えるようにして苦し紛れに食用ってしていたって何かで読みましたし、幕末新選組の隊士が明日は死ぬかもしれぬ。って状況で精をつける為に“ももんじ”食いって(薬喰い)言って猪肉を買ってきて煮て食っている匂いに周りの住人が辟易した。って言うのも読んだことがあります。文明開化ですき焼きやビフテキなどが入ってきたとはいえまだ四つ足の食の歴史は150年です。それに日本の食生活に合わせて肥育のされ方が工夫されてきているので、米食にあった、日本の調味料で調理しやすいような肉の風合いが構築されたと思っています。

なので、グリルしただけ、ソテーしただけオーブンでロースト。など、少しは香味野菜やハーブ、ワインやトマトが介在しますが、チャチャっと手早く食べるためにはそういった調理法が一番になります。そうすると肉本来の味と言いますか、旨さがないとま。ただ焼いただけ、グリルしただけ。になってしまいます。かといって向こうの肉を崇拝しているわけではないのですが、これもインポーターさんと話していて知ったことなのですが、やはり売れないと輸入し続けられないと言うことがあるので、安いなら安い。高いなら高いそれぞれのカテゴリーの中で戦える何かあるか。と言うことだと言うことで、うちが取引しているインポーターさんは大きな商いの商社ではないので、個性豊かな(安くない)カテゴリーで戦っているインポーターさんです。

それに幣価な、一般的な、例えばイタリア人の家庭で食べられているような豚肉や鶏肉等をもし何処かのインポートさんが輸入するためには日本のマーケットのどこかの隙間で、どうやって戦えるかって言うことを見いだせないと輸入できないってことになるわけなので、今度は焼くために作られた鶏肉や豚肉を豚カツや唐揚げにしたりしても逆に合わないってことになると思います。

ま。そういったことを背負いながら毎回毎回頭を悩ませ、アイディアをひねり出しているわけです。

とは言え、今日の賄の確認で不安は払しょく。ばっちりです。


2019.10.21
Sabbiosa

涼しくなってからのうちの定番のドルチェ”サビオーサ”シーズンが始まりました。


正しい調理

Peperoni al forno ピーマンのオーブン焼き

昨日一日家で過ごしながら仕事を少しして、合間に調べもので見つけたレシピ(You Tube)ですが、今日仕込みの合間に試作してみました。

野菜料理ってシンプルだけれどその料理のポイント、抑えどころがちゃんと抑えられないと、だだ何となく火が入った野菜のなにがしらの料理!ってなりがちです。今お気に入りのこの検索Youtubeだとどんな切り方だとか、何を混ぜて詰めるのかとか、オーブンは何度だとか、焼きあがった状態など具体的に見せてくれているので、美味しそうなレシピだとか知らなかった組み合わせだったりとか一目瞭然で、とても重宝していますし、刺激になっています。

で。シンプルにパン粉を振ってピーマンのオーブン焼きですがちょっとしたポイントやヒントで一味違った仕上がりになりました。

実際にイタリア人が調理しているのを見ながら、確認できるこのYoutube検索って当時現地で食べただろう、作りたい風合いの調理法に出会える確率が断然上がりました。

ま。何気なく再現してみるか!なんて焼いてみたんですが、オーブンに入れて5分もすると、なんと芳しい向こうの町を歩いている時にどこからかに追ってくるカテゴリーの(日本ではにおわない匂い)がしてきます。ほんとちょっとしたことなのに???です。料理って奥が深いどころか、底なし沼です。

匂いって、ある一定の手順を踏んで調理していくうえでかなり如実に出来栄えのリトマス試験紙のようなものだ!って改めて感じました。こんな匂いしてたら美味しくないわけない。って匂いです。

これからまた勉強し直しです。


今日の仕入れ

フレッシュのジロール茸

 

フランス産コールベール(青首鴨)とペルドロー・ルージュ(山鶉)

 

今年は思ったよりシーズンが始まって出だし好調のジビエ。暇なこの時期に毎週数羽ずつ仕入れて少しずつストックしています。


2019.10.19
フレッシュポルチーニ茸

九月に入り毎週仕入れているフレッシュのポルチー二茸。傘の部分はラグーに。足の部分はドライポルチーニ茸に。せっせと仕込んでいます。

今年はマツタケが不作らしいのですが、ポルチーニ茸に関してはかなりいい状態のものが続いて入荷しています。

鰯とウイキョウの“シチリア風”サフランの香り


2019.10.18
料理もぐんと秋めいてきました。

遠山さんの“あやめ雪”初入荷です。

ランチのアンティパストとして提供している“炙った鰆のパンツァネッラ”9月に入ってぐんとうまみが増してきている鰆を知っていただこうと考案した一皿です。

“イタリア産兎のフレッシュポルチーニ風味”

火の入れ方が難しい兎の背ロースですが、バターで表面を焼きつけてから低温のオーブンでローストにすることでしっとりとした触感を実現できます。

今ほとんどの肉・魚料理にソースを添えません。その分焼いただけで美味しい食材を探すようにしています。ただこれもソースじゃあないかって言うことにもなりますが、今、毎週仕入れているフレッシュのポルチー二茸のラグー(オイル煮)の出来が今年は本当にいいので、しっとり焼きあがった兎の背肉には合うんじゃないかとずっと以前から思っていました。今回試しにで賄で作ってみて試食してみました。思った以上の仕上がりです。

以前であればちょっとこちらも遠慮するカテゴリーの食材であった兎ですが、勿論万人受けするとは思っていませんが、ぼちぼち偏見なくオーダーされるようになってきているので、コースのおすすめのお肉料理として自信をもってご案内したいと思っています。

真鱈の白子のムニエル ローズマリー風味

今年も始まりました真鱈の白子。


2019.10.16
Porchetta

近すぎたり、当たり前すぎてしまって見落としてしまうことがよくあります。このポルケッタって言う料理(お惣菜って言う立ち位置の認識でした)は、フラスカティに住んでいた時には当たり前すぎる料理だったので取り立てて気に止めるわけでもなく、帰国して暫くしてから知ったのですが、カステリ・ロマーニ・・・フラスカティを含むローマ近郊の古くからの別荘地帯であり避暑地の一角、アリッチャがこのポルケッタの一大生産地だったということ。ARICCIAの村はしょっちゅうロードレーサーの自転車でトレーニングの際通り過ぎていました。今思えば、ちょっとしたAlimentari(食料品店)やポルケッタやサラミ自慢のトラットリアなんかを訪れておけばよかった。って後悔している一つです。時代ってどんな風に変貌していくかなんて当時考えもせず、目の前のことにただただ夢中で過ごしていました。

`90年ころの日本のイタリア料理業界はまだピザ職人も世に出ていない頃ですし、当時のイタリアでそこに目が向いていた職人はまだ一握りでしょうし、そのもう少し前の時代では、ピッツェリアで日本人は働けませんでした。それに時代はバブルまっただ中で、高級志向のレストランテが需要の高かった時代でした。経営者にしても、シェフやスタッフにしても、勿論お客さんの需要にしてもです。もう一つ受け入れ先のイタリア側にしてもレストランテのカテゴリーでないと日本人を受け入れる体制はない時代でした。

時代が下って今日このようにイタリア料理や食材が驚くほどの細部に至り輸入される時代が来ようとは思いもしていませんでした。リストランテの料理もその多くが星付きの料理を模して作られるような傾向になってきました。それには日本ばかりではなく世界中が(料理以外も)皆同じような色合いを帯びてきているようです(車にしてもエンブレム取ったら僕なんかどこの車か全くわかりません)それに伴い振れ幅や振り戻しが出てきているように思います。現地で普通に食べられているような家庭料理や地方色豊かな料理にも以前に比べれがかなり日が当たるような時代になった兆しを感じます。

ポルケッタと言う料理、当時これは買って食べるもので、自宅で作るのはちょっと無理な(現地では子豚や親豚ではないにしてもそこそこの大きさの豚を頭付きで骨抜きにして、ハーブをすり込み、またもとの形に戻して縫製し、長時間かけてローストする料理)村の広場に屋台のポルケッタ屋があり、自分も数回買ったことがありました。

娘が(三女千春さん)がYou Tubeで世界グルメ紀行や孤独のグルメを見ているのを見てイタリア語の原文を試しに入れてみるといろんな料理研究家やシェフの動画、今現地の生の情報が手に取るように(自分みたいなネット下手でさえ)映し出されました。へたな料理研究家やかっこつけた料理をする人のは飛ばし、地元の料理好きなおじちゃんやマンマは粗削りながらホントの地の料理の仕方の画を映し出した動画が投稿されています。LE RICETTE  REGGIONALI ITALIANEなどの原書を見ても知らない地方の知らない料理であると、何となく料理のイメージがあってもその土地の料理の仕方であるとか、カットの仕方、鍋の中の状況とか全く分かりません。ほんとに便利な時代になりました。

まさか自分がポルケッタを自分で作ることになろうとは思いもしていませんでした。作ってみると思ったより簡単でした。(コツはオーブンで3時間ひたすらゆっくりローストすると言うことですが)ただ、豚肉と中に詰めるハーブ、それとローストの時間と3要素で仕上がり具合が決まってしまうので、そのシンプルな工程の中でいかに納得いくストラクチャーに持っていくかと言うことなので、初めての今回でそこそこ納得のクオリティーではあると思って提供していますが、今後続けていくうえで少しづつマイナーチェンジはしていくことになるとは思っています。

現地の豚の丸焼きで作るPORCHETTAにはならないにしても現地でいただくPORCHETTAの風合いに少しでも近づけていきたいとは思っています。

 


秋の味覚続々と入荷してきています

2019.10.13
名もなき町

何も予定のない休日はのんびりと午前中を過ごします。寝起きの朝9時から“新日曜美術館”(コンディションにより起きれないこともありますが)10時から“イタリアの小さな村”11時から”こころ旅・ダイジェスト版”・・・そうして過ごしていると何とか体が目覚めて体調が整ってくる感覚になります。

先日久しぶりに手に取った沢木耕太郎さんのエッセイ“旅の窓”を再読している時に、あ。そういうことだったのか。って思う件がありました。

”イタリアの小さな村”をはじめに観始めたころは、帰国してすでに20年程が経ち、日々の慌ただしさの中でなんとなく、忘れてはいないのですがちょっと隙間が出来たような、ぶかぶかしたような感じになっていたころで、そのTVの画面に映し出される普通のイタリア人の営みに改めて触れ、あ。こんなだったよなイタリアでの生活は。って、今もあんまり変わらないイタリアの田舎の村に住む人たちの営みを淡々と定点観測しているような目線が自分も住んでいたころの感覚で、さも自分もその村の住人になったような錯覚に似た感覚を感じ、忘れかけているイタリアの田舎に住んでいたころの心情を思い起こすことができ、その感覚がこの日本で味わえる時代が来たんだという実感を伴うことが出来ました。

“心旅”にしても、その場所に思いをはせてた人のバトンを借りて伴走者のような目線でその投稿者の歩んでいただろう道筋をたどる感じが好きなのでしょう。

どちらも出すぎなさがいい。

で。“旅の窓”の目線(このエッセイは沢木耕太郎さんが旅先で撮った一枚の写真にひとつのエッセイを添えた本で、50歳以上のそれなりに人生経験をしてきた人が読むと琴線に触れるフレーズに出会えるような気がしている本で、ふっと。たまに手に取り読み返したくなるお気に入りの本です)で今回、パラパラとページをめくっていて、あ。そっか。って思った言葉がありました。“名もなき町”・・・車で通り過ぎてしまうような小さな名前もないような町に何かのきっかけで立ち止まったりすると、急に現実味を帯びてそこに住む人の営みを感じられる現実の町として存在しはじめたりする。確かそんなようなことが書かれていました。

確かに、電車の車窓から次々に駆け抜けていく住宅、山間からすっと顔を出す斜面に張り付くように数件だけ佇む小さな集落。車で移動しても同じ。どんな人がこんなとこで住んでるんだろう。って思うような場所。あともう一つ思い出しました。飛行機なんか乗っていて昔はアエロフロートとかよく利用していたので、ユーラシア大陸のここ何処!って言うような場所の上空。スーッと一本の道、飛行機で暫く飛び続けても村や人の気配がないような場所にふっと数件の村らしい建造物が見えてたりすることがあります。そうするとそんな場所にすっと降り立ってみたい衝動に駆られたりしました。それはちょっと極端ですが・・・。

“イタリアの小さな村”“こころ旅”はその目線があったんだ。って。行ったこともない町に立ち止まって、そこでの人々の営みにちょっとだけ触れる。出過ぎない。彼らの生活にちょっと伴走させてもらう。その距離感が自分には心地よいってことに気付かされました。

 

 


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