何も予定のない休日はのんびりと午前中を過ごします。寝起きの朝9時から“新日曜美術館”(コンディションにより起きれないこともありますが)10時から“イタリアの小さな村”11時から”こころ旅・ダイジェスト版”・・・そうして過ごしていると何とか体が目覚めて体調が整ってくる感覚になります。
先日久しぶりに手に取った沢木耕太郎さんのエッセイ“旅の窓”を再読している時に、あ。そういうことだったのか。って思う件がありました。
”イタリアの小さな村”をはじめに観始めたころは、帰国してすでに20年程が経ち、日々の慌ただしさの中でなんとなく、忘れてはいないのですがちょっと隙間が出来たような、ぶかぶかしたような感じになっていたころで、そのTVの画面に映し出される普通のイタリア人の営みに改めて触れ、あ。こんなだったよなイタリアでの生活は。って、今もあんまり変わらないイタリアの田舎の村に住む人たちの営みを淡々と定点観測しているような目線が自分も住んでいたころの感覚で、さも自分もその村の住人になったような錯覚に似た感覚を感じ、忘れかけているイタリアの田舎に住んでいたころの心情を思い起こすことができ、その感覚がこの日本で味わえる時代が来たんだという実感を伴うことが出来ました。
“心旅”にしても、その場所に思いをはせてた人のバトンを借りて伴走者のような目線でその投稿者の歩んでいただろう道筋をたどる感じが好きなのでしょう。
どちらも出すぎなさがいい。
で。“旅の窓”の目線(このエッセイは沢木耕太郎さんが旅先で撮った一枚の写真にひとつのエッセイを添えた本で、50歳以上のそれなりに人生経験をしてきた人が読むと琴線に触れるフレーズに出会えるような気がしている本で、ふっと。たまに手に取り読み返したくなるお気に入りの本です)で今回、パラパラとページをめくっていて、あ。そっか。って思った言葉がありました。“名もなき町”・・・車で通り過ぎてしまうような小さな名前もないような町に何かのきっかけで立ち止まったりすると、急に現実味を帯びてそこに住む人の営みを感じられる現実の町として存在しはじめたりする。確かそんなようなことが書かれていました。
確かに、電車の車窓から次々に駆け抜けていく住宅、山間からすっと顔を出す斜面に張り付くように数件だけ佇む小さな集落。車で移動しても同じ。どんな人がこんなとこで住んでるんだろう。って思うような場所。あともう一つ思い出しました。飛行機なんか乗っていて昔はアエロフロートとかよく利用していたので、ユーラシア大陸のここ何処!って言うような場所の上空。スーッと一本の道、飛行機で暫く飛び続けても村や人の気配がないような場所にふっと数件の村らしい建造物が見えてたりすることがあります。そうするとそんな場所にすっと降り立ってみたい衝動に駆られたりしました。それはちょっと極端ですが・・・。
“イタリアの小さな村”“こころ旅”はその目線があったんだ。って。行ったこともない町に立ち止まって、そこでの人々の営みにちょっとだけ触れる。出過ぎない。彼らの生活にちょっと伴走させてもらう。その距離感が自分には心地よいってことに気付かされました。
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