もう25年くらい前のことになりますが、東京修業時代、勝どきの倉庫街にクラブ・ニュクスと言うレストランがあり、友人の紹介でそのレストランを知りました。当時付き合い始めた由貴さんと奮発して食事に行きました。
それまで東京生活1年ほどは数名の上京組の何人かは、東京で就職した子もいるでしょうが、当時高校を出て調理師学校からイタリアの約6年、全く誰とも文通とか連絡を取ることをしてなかったため、ほぼ誰も知る辺もなく孤独な東京修業時代の休日を過ごしていました。その頃一人飯はどうもさみしさ倍増するような気がして、愛車(YMAHA/SRX400)で何時も奥多摩や鎌倉などに出かけ、周りが家族団らんの頃あいを避けて帰宅して、酒を飲んで借りてきたDVDの映画を見ながら酔っ払って寝る。と言うような生活を送っていました。
で。恋人が出来て一番うれしかったのは、食事に行けるパートナーが出来たと言うことでした。
イタリア時代、田舎暮らしで回りに日本人がいないような生活をしていた割には、それなりに日本人同士で連絡を取り合ってなんだかんだと食事に行く機会はありました。帰国してみると東京生活1年ほどほとんどどこにも食事に行った記憶はありません。由貴さんと付き合い始めたのをきっかけに、当時話題のお店や、あこがれのシェフのお店、勉強になりそうなお店とフレンチとイタリアンとジャンルは限定していましたが(由貴さんが当時蕎麦食べれないと言っていたので。今は美味しい蕎麦なら大好き。っていうところまでなりました)それまで鬱積していた思いを月一回の食事に出かけるって自分に課して過ごしました。・・・一回の食事代が目安3万円!と決めていたので、シェフの知り合いのレストランの場合はその旨を伝え向こうのシェフに電話してもらっていました。そうするとワイン白と赤と見繕って出してくれ、フルコースの料理で勉強させていただけました。高いようで安い(お値打ち)にやっていただきました。
東京修業3年のうちの後半の2年ほどはフレンチとイタリアンしか行っていませんが、限られた予算と時間の中では我ながら、それなりに経験できたんじゃあないかと思っています。
とは言え、薄給の身で、食事代はこちら持ちのため、その月一回の食事デート以外のデートもしくは、日々の帰ってからの食事はかなりセーブしていました。吉野家でさえ毎日帰りに寄るとなると出費がかさむと言うことで給料が出た日の帰りにの月一回!帰宅途中に食べる晩御飯としての三軒茶屋の吉野家はこれもまた別の意味で自分へのご褒美でした。
毎日のように深夜帰宅途中のルーティーンは、これも三軒茶屋にある富士そばでした。蕎麦の煮かけを頼み、トッピングはいつも春菊天とごぼ天が定番。それで確か360円かそこらでした。それを数分でどんぶりの蕎麦をかっ込んで、バイクで狛江まで帰るとちょうど満腹中枢が効いてきました。後は自宅でビールを一本飲んで寝る。休日以外の25日はそんなでした。
そんな生活をしていたので、今でも結婚当時の写真を家族が見ると、パパ細かったね。っていつも言われます。
|