いつの頃からか?映画は傍にありました。小学生くらいの記憶はあんまりないのですが、高校生の頃はほんとしょっちゅう、頻繁に映画館に行っていました。
確か地元半田の映画館はロードショーとかはなく、2本立て、3本立てとちょっと都会の封切館の公開からずれて公開される分抱き合わせで公開されていました。昔はどこもそんなんだったんじゃあないでしょうか?
気に入った映画が来ると、朝一番から夜最終まで、当時入れ替え制ではなかったので、一日中どっぷりと映画館に自ら缶詰になって映画漬けのひと時を満喫しました。今思うとモヤモヤしたはけ口のない思春期ならではの割り切れなさや将来の不安なんか?を映画に自己投影して発散していたのかもしれません。
高校時代一番印象に残った映画は”ワンス・アポンア・タイム・イン・アメリカ”で確か3時間くらいの映画だったと思いますが、2回半くらい(入館時放映途中だったので0.5+1+1)さすがに二本立てではなかったと思いますが、夜映画館を出た時にはもうさすがにお腹いっぱいに観た感で充実していたことを覚えています。
その後大阪の調理師学校時代も友達も特にいなかったので、神戸に行くか奈良に行くか難波や梅田の地下街をふらふらとするくらいしか当時の自分には思いつくことがなく(ただ当時、勿論震災前ですが、神戸の中華街や三宮とかよくふらついていました。電車賃だけなら往復1000円くらいでどこでも行けましたから。特に印象深いのは、神戸の異人館のある一帯の北野なんかは、さすがにインドの方のターバンやサリーを普通にした人たちが結構いたりして半田から出てきた二十歳前の自分なんかは同じ日本なのに、この異国情緒感にほんと吃驚したことを覚えています)確か難波だったと思いますが、名画座の様な映画館があって、古い名画をよくそこで観ました。”フィールド・オブ・ドリームス””卒業””黄昏”とか。あと何観たでしょうか?実家にしばらくその当時買ったパンフレットいっぱいありましたから。
その後ローマに渡り、全くイタリア語が分からない頃から頻繁に映画館には行き続けました。それは映画で普通の会話劇を見ることによって少しでも生きたイタリア語を吸収しようと思ってで、だだ初めの頃は、分っていなくて、なんでも映画なら行けると思ってシリアスな映画の上映館に入ってしまい2時間たっぷりと状況の変化がなく勿論イタリア語も全く理解できずで辛い時間を何度か過ごしました。その後はさすがに学習して、ハリウッド映画、シュワルツェネッガーやシルベスター・スタローンなどのアクションものを中心に、言葉が分からなくても映像だけで楽しめるものを選ぶようになりました。イタリア時代もほんと映画館には行きましたね。
当時イタリア映画の印象は、B級ラブコメ。と言いますかドタバタ映画の印象しかなく、そんなの街歩いてれば道端でやってるじゃん。と言う印象で、わざわざ時間をつかって研修生の身で当時8000リラ(約1000円)とはいえムダ金に思ってしまうような映画はいかなくっていい。って思っていたので、イタリア映画は完全に避けていました。
で。今思えば印象に残る映画との出会いはローマ最後の時期で、その後数か月後には帰国するという時期でした。長年お世話になった大好きなローマ。お金がないこともありましたが歩いて町を散策することが大好きでした。そのローマで過ごした4年半、思い出の町の路地路地を歩いて体に沁み込ませようと、時間があると”スペイン広場”や”ポポロ広場””トレヴィの泉”などの当時生活圏周辺はもちろんのこと、はたまた遊び場だったエリアのローマの下町”トラステヴェレ”や”コロッセオ“”ナボナ広場””ヴァチカン広場”などを歩いて巡っていました。
そんな中でも家具職人や額屋さんなどの工房が軒を連ねた職人街を通り抜けたところにある”カンポ・ディ・フィオーリ広場”の片隅で見た”ニュー・シネマ・パラディーゾ”は衝撃を受けました。その頃かなりロングランをしていて、今はどうか分かりませんが、映画館に掲げてある大きなポスターや、町のあちこちでも目にする告知の看板やポスターを見てはいはたので覚えてはいたのですが、先ほども書いた《イタリア映画》っていうところで二の足を踏んでいました。その時ほんとぽっかりと時間が空いてしまって、トラットリアに行くまでのお金も持っていないし、時間は3時間くらいフラスカティまで戻る間には間があるし。でもそれが今思うとほんと良かったんです。ちょうどその”カンポ・ディ・フィオーリ広場”にあった映画館がこの映画に出てくるパラディーゾ映画館のどことなく似ていて、その館内であの映画を観てしまったのですから、そりゃあ出来過ぎです。あの衝撃は一生忘れないでしょうね。
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