2020.07.08
名もなき町

初めて飛行機に乗ったのが‘86年で、アエロフロート(ソビエト航空)でした。

夜通しユーラシア大陸上空を縦断していく中で、窓から見下ろすとつーっと細い一本道があります。飛行機で何時間も飛行してきていてのそんな場所です。上空から見下ろすと、舗装してあるのかどうか定かでないような場所に、パラパラと数件建物が見受けられ、ガソリンスタンドや商店なんてあるのかなあ?ましてやホテルなんて無い様な、町とも言えないような場所を発見した時なんかはホントにわくわくしました。できるものならそこに降り立ってみたいとも思いました。

10年ほど前に偶然手にした【深夜特急 沢木耕太郎著】当時ドキドキワクワクしながら読みました。沢木さんがユーラシア大陸をアジア側からバスを乗り継いでイギリスまで走破するというドキュメンタリータッチの経験談を下敷きにした小説です。自分が渡航した`86年。小説の時代と下ること約8年くらいでしょうか。多分時代背景は70年代後半でしょう。何も知らずに過ごしていたイタリアでの当時の空気感をどことなく留めていているような、ヒリヒリした感覚がよみがえってくることがこの本を手に取っている間ずっと続きました。

この小説をずっと一貫して覆っている焦燥感。どこから来るのか。

アジアからインドそしてネパール、パキスタンなどは当時かなり物価も安かったんでしょうが、治安もかなり悪かったと思います。それに交通の便や流通の悪さも次元が違うと思います。イタリアでも当時日本から行くとカルチャーショック受けましたから・・・。でも小説から受けるそのヒリヒリした空気感や焦燥感もピークでドキドキするのはは中央アジアまでで、日本人にもなじみがありげな地域のトルコやギリシャ、スペインそして我がイタリア~フランスそしてゴールのイギリスと終盤はあんまりヒリヒリもしませんしペンの圧もゆるく感じていきました。

それは何かと思うに、やっぱり、ぎりぎりの感じで過ごすことの多い中央アジアが当時の青年沢木さんにとって緊張し続けている日々が、ある意味充実していたのじゃあないかと思えます。たぶん毎日がぎりぎりの精神状態、崩壊しそうになりながらぎりぎりのところで保っているって感じがページの端々に感じます。

日本じゃあほんとの意味で実感を伴う感覚として感じたことのない言葉”カオス”!今思うと当時のローマ、トラステベレ地区にあった今はどうなっているか知りませんが、ポルタ・ポルテーゼの蚤の市は初めて行った時には吃驚しましたもん。町の中、アパートの建物の廃墟のような所にごみ貯めのようになった一角があり、その中に蚤の市がたっていて、いかさま博打はやってるは、ごみのようながらくたがビニールシートの上に商品として並べられています。美品のように見えるものは盗品だって。もし何かを盗まれたらポルタ・ポルテーゼに行けば見つかるとも言われていました。

イタリアでも当時そうなんですから、EU統合とかグローバル化してきている現在とは当時は空気感が全く違うと思います。沢木さんが確か1年ちょっとをかけて移動してきた大小ひっくるめた町や村、もし自分に時間とお金があったとしても、ほぼ絶対行ったりしない、ある意味自分にとっては名前の無い町や村の様なもののように感じます。

 

今まであえて距離を置いてきたイタリアのコロナの話題、検索やチェックは一切しませんでした。朝BSのワールドニュースを見るかせいぜい新聞の情報まで。

以前9・11の時も暫くするとドキュメンタリーのTVでかなり詳しく番組が編成されていて事件の全体はこういうことだったのかある程度理解出来ました。

今回刻一刻と状況が変化していくコロナ禍の下で世界中、特に被害の多いコロナ主要の各国のダイジェストの情報が平たくなって伝わってきていました。先日やっとイタリアのコロナがどこでどうして始まったのかと言う核心を捉えた番組が放映されたので、2月からのこの5ヶ月間でいったいどんなことだったのかを知りたくて深夜のBSの番組だったのですがなんとか起きて観ることが出来ました。

のっけからショックだったのが最初に感染者が発見されたのが北イタリアだって聞いていたのですが、ロンバルディア州のCODOGNO(コドーニョ)って!

ぼくら夫婦でお世話になっていたMALEO村から10㎞弱のところ、と言うかその逆で、MALEOからどこかに行くための最寄り駅がコドーニョで、何度か街で買い物もしました。とはいえ、最初に発症者が出たって言うこと以外その後に起きたことはどこも同じです。

 

当時ローマから特急と急行列車を乗り継いでCODOGNOの駅に降り立った時は、えらい辺鄙なとこに来てしまったなあ。と思ったことを思い出しました。で、実際MALEOまで行き方が分からず、バスを1時間以上待ったことや、着いたら迎えに行くから駅から電話しなさいって言ってくれてはいたものの、休憩時間の頃到着してしまい連絡がつかず、個人タクシーもつながらず、諦めてスーツケースをゴロゴロ引きずってその10㎞弱の道のりを歩いたこともありました。その頃思っていたことがこのCODOGNOって街のことなんて日本のガイドブックにも載っていないし観光地でもないですし、MALEOのRis,Albergo del soleに研修に来る日本人くらいだろうと。食事に来る日本人は現地の友人の車で来るか自分の車かレンタカーで来るでしょう。あまりにも不便だからです。まさか今回のコロナ禍である意味負の意味で脚光を浴びるようになってしまっていたとは本当にショックでした。それまでは日本の一般の人、もっと言うと世界の人々にとっても今までは名前のない町だったわけです。今回のことで現実味をもって我々に、ある意味カミュの小説ペストのオラン市になったわけです。

でも今は終息し落ち着きを取り戻し始めていると番組は締めくくられていました。今でもお世話になった友人が何人かいます。僕の半分はイタリアでできています。本当にお世話になったし、僕を育ててくれた場所だからです。

いつまでもイタリアのことを思っています。


2020.07.06
PANNA COTTA

イタリア料理のドルチェのバリエーションはとても豊富です。ナッツを使ったもの、フルーツを使ったもの、粉をベースのタルトのバリエーションんも地域ごとに。勿論ジェーラートやセミフレッドなどの氷菓も本場ですし。

自分の修行時代の、特にローマのレストランでは、自店でドルチェを作るって言うレストランは半々くらいのイメージで、出入りの美味しいパティスリーの物を仕入れて売るというレストランもままありましたし、TRATTORIA・OSTERIA・TAVOLA CALDAなどのカジュアルなレストランや食堂的なお店ではほぼ自家製のドルチェは提供されていなくって、大手のラクトアイスみたいなものを揃えている店も多くありました。

その仕入れているレストランの考え方と自家製造しているレストランもイタリア(フランスもだと思いますが)では同じ考え方で、専門職が作ると言うこと。自家製造できないお店は専門店からそのノウハウをもってつくられたものを仕入れる。自家製造しているお店は、その専門職の職人を雇って製造していると言うこと。

方や日本では、個人店ではそんな専門職を雇えない事情から、皆で手分けしてどんな作業もこなすといった考え方が主流です。そして自分としては将来は自分でお店を持とうと早くから思っていたので、そのポジションになっていなくても自分の手が空けば(とはいえ、そんな時間はめったにありませんが)少しでも手伝うようにして少しでも経験値をあげておくと思って過ごしていました。

で、一つ。レストランのドルチェとパティスリーで作られる菓子は製造するうえでのロジックが違います。まず、パティスリーの菓子は持ち帰るのが前提で構築されているので、リキュールやゼラチン、グラニュー糖、もっと言うと焼き方まである程度日持ちさせるため、もしくは数時間の移動を考慮してのテクニックで製造されています。今ではお持ち帰りできない菓子も売られているお店も増えましたが。

方やレストランのドルチェは基本すぐサーヴィスしてすぐ食べて頂けるので、その場でココットから出すのでゼラチンもぎりぎりで仕込めますし、その場でクレームブリュレなどはカラメリゼしてジェーラートをトッピングしたりもできます。その場でカットして盛り付け、アングレーズなどのソースを添え粉糖やミントでデコレーションもできます。パティスリーにはできない発想の自由さもあると思います。もちろんどちらがいいとか優位と言うことではありません。それぞれの特性です。

とは言え、今現在は一人で調理すべてを担っているので、極力シンプルでイタリアらしいドルチェ、何度食べても飽きないものを心がけて作っています。ただ常連のリピーターも多いので季節もののドルチェも一品は置くようにしています。

料理もそうなのですが、一人で調理って言うことだけではなく伝統的な料理や菓子がもともと自分が好きなこともあり、それと現実面で言うと小さなマーケットの中である程度認知されるかリピートしていただくためには印象付ける仕事を提供していないと流されてしまうと思っていて、自分が経験したことと新しく学んだことを総動員して、いかにシンプルで美味しいものを提供するかって言うところに情熱をつぎ込んでいます。そこに燃えるんですね性格的に。

で、久しぶりに仕込んだパンナコッタ。このレシピは当時旅行で訪れたピエモンテの書店で偶然手に取った、地元のシェフが提唱するピエモンテ野郷土料理の本をぱらぱらとみていて作ってみたドルチェです。何年か前にピエモンテのワイン醸造化が来店されたことがあって、このパンナコッタを食べて帰り際に、結構興奮して『このRicetta(レシピ)はどこで習ったんだ』って聞かれました。どうしてそんなに興奮しているのか聞いてみると、老舗のワイナリーのオーナーってことはいろんなレストランとの交流があるはずですが、ご多分に漏れず彼もまさにそうで、彼曰く、地元の郷土料理をかなり専門的に蔵書も収集して研究していて日々の生活でもレストランで過ごすことも多いでしょう。今ピエモンテでもこういったパンナコッタを出す店が亡くなっていてなぜこんな日本でそれも豊橋みたいな地方都市でそんなパンナコッタを出している店があることに興味を持ったと言うことでした。

ただ自分は、ピエモンテは唯一、一度だけ数日滞在しただけで、レストランも10件ほどしか経験ありませんでしたが、今まで食べた中で一番おいしかったパンナコッタをその中の一件で出会った幸運と、偶然にしても旅の途中でその本を購入したこと。その後10何年もして読み返し、そのレシピに目がとまり、再現がちょうどうまくいったことなど。いくつもの幸せな偶然が重なったことをお伝えしました。

仕事柄いろんな方と出会いますし、また仕事柄色々なイタリア料理やドルチェに取り組みます。食材との出会いがきっかけとなることもかなりありますが、今までこうやって過ごしてきて本当に出会いって必然だなあ。と感じることが多くあります。幸福な出会いです。


2020.07.05
今日の賄”フォー”

自分んって、ちょっとここが変なとこなんですが・・・。賄いを作るときに、心掛けているのはもちろん『あるもので賄う』なんですが、なんでもできるわけではないですし、時間やその時々で食材の制約もあります。近年では夫婦二人での営業形態なので、以前はご飯を炊いていたのですが作業工程が増えることと二人分のご飯を炊くのも(鍋で以前は炊いていました)今はやっていません。必然的に献立は洋食か、中華や和食でもご飯抜きになります。

献立はパスタの日が半分、中華や野菜炒め、下ろした魚のアラの塩焼きなどです。日々ランチの営業後の片付けや夕方の準備の合間にササっと賄いを作って食べるわけですが、時間がある日にはちょっと凝ったことをしたり、食べたいものを作ります。

それと賄料理で(イタリア料理で持っている、賄で使える食材)許容力があるのが、やはり中華。もちろん鍋やみそ汁。あとパエージャ!パプリカのロースト、蛸のトマト煮、お客様にお出しできなくなった魚介類や切れ端、バーニャカウダの野菜の残り、生ハムの硬い部分などなど、なんでもお米が受け入れてくれます。言ってみれば闇鍋状態がかえって美味しくなるくらいのイメージ。

ただ自分のウィークポイントが、結構普通の料理が苦手。例えば焼きそば、うどんや蕎麦(冷やしは得意)、具の少ない普通の味噌汁、お好み焼き、かき揚げなどの天ぷら。当時はスタッフの青さんにその辺のメニューは助けてもらって、それ以外は自分が作るというやり方をしていました。

なのに、変な料理は血が騒ぐというか燃えます。大陸系だからでしょうか。ハーブカレーの真似事だとか、例えばある日は、なんか中央アジアで手で食べるようなイメージのプレートって言うお題で想像料理を作ったりとか。ハンバーガーをパンズから作るとか。

ちなみに由貴さんの印象に残っている賄は、酸辣湯、蒸しパンを作って自家製八角風味の豚の角煮を辛子で食べたり、九州柳川で食べてきた地元の鰻の蒸籠蒸しを再現したりでした。あとはシンプルにワインとチーズとバケットなんて言うのまで。

長い一日の営業で少しでも(もちろん毎日ではありません)リラックスすることや、親交を深めるひと時って大事だと言うことは、イタリアのレストラン、帰国して働いたアクア・パッツアでもこういった概念で皆取り組んでいました。勿論こういった仕事柄賄が食べれないような日もあったり、食べれないまでも忙しくて、その時間をどうしようって言う日もままあります。賄いが上手くいってない時ってお店の方もうまく機能していないって言う現場のほろ苦い経験も。

今日はなんだかアジアンな気分!久しぶりにフォーにしてみました。ただちょうど魚のあらがあったのでホウカイ(ヒゲ鱈)のアラのフォー、勿論パクチーも入れました。

 


2020.06.30
これからの話をしましょう。

 

6月よりお昼の営業に際して完全予約制とすることにさせていただきました。

以前から、漠然とではありますがそれに近い話が上がっていたのですが、踏ん切りがつかずにいました。

4月、5月とそれに続く6月と一日ごと、一週間ごとと変化しながらコロナ禍の中を過ごして来ました。

特に真っただ中の4月5月。勿論自粛期間中です。細々と営業している中来店してくださるお客様方がありました。とは言え、お昼御一人とか。ご夫婦とか。あって2組。よくて3組。もちろん0も普通でした。夜はもっと↷です。言わずもがな、当たり前です。その中、特に志村さんが亡くなってから1ヶ月半の間、唯一ゴールデンウィーク確か5月4日だったかお昼1組、夜一組がお顔と名前が分からないご新規のお客さまでした。それ以外すべてお顔と名前が分かるかたばかり。何人もの方が、帰りがけに言われたことがありました。『もし自分たちがコロナの陽性のキャリアーだったらお店に迷惑がかかるので迷いました』そこまでして応援に来てくださりました。一生忘れないと思います。そんな日々が続きました。

それにここも忘れてはいけないと思っています。このコロナ真っ只中、取引先ももちろん掛け算で飲食店を抱えているわけで、頃合いを見て注文がなくても電話して近況報告や励まし合っていました。例えばモッツアレラの北海道白糠酪恵舎さんとかは売れなくても注文掛けていました。売れなきゃ食べればいいと思って。よっぽど暇な頃は通常10個注文するのですが、とりあえず送料とかもあるので、でも8個にしたりしながらとか、あと注文の周期を毎週を、中10日にずらしたり。とりあえず細々とでもお付き合いを共に乗り切ろうと繋げてきました。

岩手山形村さんの短角牛も月1本のサーロインをいただくのですが、取り続けました。一時期サーロインが3本溜まりました。ちょうどそのころ牛の屠畜が急激に減っていると耳にしたころです。それでも、うちの奥さんもお金のやりくりが勿論あったのにこの期間中一切ぼくのやり方に口をはさみませんでした。

ほんと頭が下がります。

6月になり少しずつですがお昼の営業に関しては戻る兆しを感じています。夜の営業は、ま。もう少し時間をかけて。と思っています。それはどこも同じだとも思います。

それで。自分も今年で54歳になり、今回新しい借金もできました。あと20年とか現役でやるためにどうするか夫婦の話題にちょくちょく上るような年齢になりました。お客様からもいつまでもやってね。って言われることが増えました。

このコロナで時間が出来、二人で話し合う機会も増え、うちを普段から支えてくださっている優良な生産者の方や、小規模でよい食材を入れてくださっている輸入業者の方々。それにこんな中でお店がつぶれないようにと、言葉にはされませんが来店されて方々にどれだけ励まされたか分かりません。そういった同士の方と長く営みを続けるためにはどうすればよいかと考えるに付き、特にお昼は12時にひとまとまりとなってご予約の方が来店されるにつけ、そこでフリーの方も、となるとちょっとご予約された方にベストが尽くせないのは(尽くしていますが)ちょっと違うんじゃあないかと思うことに二人の意見が一致し、どうせ暇なんだからいっそこの時期に改編をすれば。と言う結論に至りました。あと、それに伴いご予約を当日の12時少し前までとさせていただくようにもなります。12時ころに電話を外しますご了承ください。

どうぞそういうことで末永くよろしくお願いいたします。

 

 

FRASCATIさかきばら


2020.06.15
調理場の改修工事

この場所で移転オープンしてはや19年!

そもそも、調理器具のその大半が、前の店から持ち込んで移設しての再スタートでした。早いもので19年と言う歳月が流れ、いくら業務用としてもとっくに耐久年数は超過していました。一部のエアコンやコールドテーブル、アイスクリーマーなどは買い変えましたが、調理場の心臓部部分は以前のままでなんとかやりくりしてきました。特にこのオーブンコンロなんかは以前の店の前のオーナーが設置したものを、店舗を購入した時に内装込みで購入して、その場所で3年半営業後、今の場所に移転して使い続けてきましたから、多分35年物でしょうか?

これまでに何度も『お金ないんで、なんとか修理で直してください。お金出来たら必ずおたくでやりますから』と、ごまかしごまかしやりくりしてきました。

今思えば、うちに入っていた道具はほんと当たりで、こんなに壊れないのって珍しいって修理に来た業者の方にも何度も言われました。親孝行な道具たちでした。

今回コロナ禍の中、国の融資(国民金融公庫さん)の申請を思い切って申請することにし、こういった状況下で融資の申請もおり、今回事業資金のうち運転資金と設備資金の両方を借り入れることができ、晴れて、思い切っての調理場の心臓部分のテコ入れと言う形で改修工事が出来ることになりました。

実に19年良くやってくれました。

コロナ禍の中、気分が晴れない部分はまだまだありますが、こういう機会だったからこそ、融資に踏み切れましたし、運転資金にとどまらずに、踏み込んで設備資金までお願いするきっかけになりました。

禍々しい時代ではありますが、ピンチをチャンスに!と夫婦で話し合っての決断でした。その融資のお陰で今回の調理場の改修工事が出来たのと、ずっとほしかったフランス製ラギオール社の肉用のナイフを少し購入することが出来たり、店内の改修に少し手を加えることが出来たりと、だいぶんへたってきている部分をこの機に少しずつテコ入れすることにお金が使えそうです。ありがたいことです。

今までも気持ちはあっても、どうしても仕入れに全力だったので、そのほかの場所には、なかなかお金を回せずにいたもどかしさがありました。

常連さん方は味があっていいよとは言っていただいていましたが、そうも甘えていれないのもわかっています。

とは言え限られたお金の中で、ガラッと、一層とはいきません。出来る所から少しづつです。

昨日は自分が休日出勤して一通り掃除と取りまとめをやっておき、今朝から業者さんが入って入れ替え作業中です。今日中には終了夕方から少し仕込みを始めます。

本格的に稼働するのは明日からになりますが、コロナがなかったらある意味こんな思い切ったことはやれていませんでした。心機一転明日からまた頑張ります。

新しい調理器具も入るので楽しみです。徐々にその新しい調理器具(グリラー)を使った料理もできてくるといいと思っています。

 


2020.06.12

頂き物”大判焼”

蛇が苦手

これも散歩つながりの話。

ぼくらが小学生の、こと田舎のガキンチョ達の夏の楽しみはカブトムシやクワガタ採集でした。いつもは朝苦手なのに、ことカブトムシ採りとなると、不思議と朝5時とかでも目が覚めました。その山は他校の小学生も採取に来る地元では有名なカブトムシ山で、少しでも早く雑木林に分け入って誰よりも多くカブトムシやクワガタを捕まえてやると鼻息荒い子供たちのメッカでもありました。

ぼくも当時その中の一人で、勇んで雑木林に分け入ったある日、目の前の倒木をしゃがんでくぐろうとした目の前の倒木の上をひょいと見ると、なんと大蛇の横っ腹がぐにょぐにょと這っていくさまがほんの目と鼻の先にありました。

ほんとに腰を抜かしそうになり、悲鳴にならない悲鳴を他の雑木林に入っている小学生に聞かれては。と気が動転していたと思いますが瞬時に頭が働き、ごくん。と悲鳴を飲み込み後ずさり。その後は自転車に飛び乗り一目散に家に帰りました。

自転車こぎながら、心臓バクバクで、それまでそんな心臓の鼓動聴いたこともないくらいでした。

それがきっかけかどうかはさておき、いまだにもって蛇は苦手。

 

そこ数年は新城に住んでいても(冬は冬眠中なので)年間5回くらい、よく見るのは道を横切る蛇。惜しくも道を渡り切れずに轢かれてしまった蛇です。

ここのところ朝の散歩を始めてからと言うもの、毎日のように蛇に遭遇します。

早朝から、ぎゃあぎゃあと叫びはしませんが、ああ。吃驚した。って思っているうちに鳥肌にぞわぞわとなっていきます。

ある人にそんな話をしたら、蛇って縁起がいいんだから。そう思えばいいんじゃない。って言われて。気は持ちようようか。って思うようにしています。が、道端で突然遭遇するとやっぱりびくっとなります。


2020.06.11
挨拶

イタリアに住んでいる時、ローマ以外は小さな町(村と言っていいくらい)の何か所かに住みましたが、かえってその小ささの風通しの良さなのか、それともイタリア人気質(ラテンな人々)の気質に由来?研修先はどうしても就業ビザや保健所などの手続が必要とされるため、その町を代表する有名店、フラッグレストランとでも言いましょうか、彼の地ではRESTORATORE(レストラン経営者)とくに有名店の経営者は、その町の有力者とのつながりのパイプが太かったり、いろいろと融通のつくポジションの方が多いような気がします。そのためか、自分たちみたいな東洋人なんてほとんど見かけないような田舎のレストランのような場所で働くGiaponeseと、ある程度町の主だった住人や商店主にそういった状況を認知されていたとこが幸いしてか、市内のメルカートやアリメンタリー(食料品店)、バールなどで買い物をしてもイタリア人ならではの人懐こさで”チャオ””ボン・ジョルノ“”ボナ・セーラ”と挨拶を普通にかわしていました。

先日、イタリアに電話してみると、言われてびっくりしたのは、ハグしているのを見つかると400EURO(4万円強)の罰金だそうです。

ある時などは、おじいちゃんが近寄ってきて、『お前はGiaponeseか?それならKUROSAWA(黒澤明監督)を知ってるだろう』って突然話しかけらりしたこともありました。

いま世界中で、人種差別的な暴動を伴う行動が頻発していますが、当時のイタリアはそういったことがあまりなく、(アフリカ系の移民には何となくありましたが、当時日本はヨーロッパEU統合前夜で、日本製!のソニー,ホンダ、トヨタ、キャノン、ヤマハなどオーディオ機器、カメラ、バイク、車など最先端の技術とデザインが輸入されていませんでした。彼らはそういったモノづくりのできる日本人に対して好意を抱いていました)そのおかげか、差別はほとんどなく、友好的な関係をもって過ごすことが出来ていました。なので、今こうしてイタリア料理を通して当時お世話になった良い思い出を胸に恩返しをしているところがほんと、多分にあります。

その後帰国して、東京で働くようになって初めの頃に経験したことで今でもはっきり覚えていることがあります。

寮が目黒区(碑文谷)にあったのですが、そこで生活し始めたほんの間もなくのある休日の日曜日の夕方、何かの用事を済ませ、帰宅途中。寮だったアパートの目の前、近所で子供を遊ばせていた三家族(お母さん3人に複数の幼児)が路で井戸端会議、お母さんたち3人が四方山話をするすぐ横でちびちゃんたちが三輪車か何かで遊んでいました。夕方の食事前のひと時でしょう。横を通り過ぎる間際に、『こんばんわ』と何げなく声をかけて通り過ぎようとすると、ちょっと異様な雰囲気を感じ振り向くと、大げさかもしれませんがそんな空気を感じ、何気なく振り返ると、お母さんたちが怪訝な顔でこっちを向いていました。何かしでかしたのかなあと思いながら数歩歩き過ぎて気付きました。あいさつはしないんだ。と。大勢住んで、いつまた入れ替わるかもわからない地域で、ましてや家持のその一団の人は、そういう概念がない人たちなんだ。

その時、東京に移り住んでほんの間もないころに、自分の住む場所じゃないんだ。と突き付けられているような経験でした。

23年前に、豊橋でお店を自営することになり、新城の実家に定期的に帰っていましたが、より密に帰省するようになっていました。ちょうどそのころ長女が生まれたばかりで、夕方早い時間、ちょうど地元の子供たちの帰宅時間でした。(その後娘たちが次々とお世話になることになる八名小学校、八名中学校)の小学生や中学生たちが子供を抱きかかえて歩く自分に『こんにちわ!』『さようなら!』と声をかけてくれました。

初めて声をかけてくれた時には、まさかそんな習慣が残っている地域がまだ日本に残っているのか。って吃驚してしまってしどろもどろで、やっとのことで気持ちを立て直し返事を返し、次回から散歩の際、向こうから小学生や中学生が歩いてくると心を整えていつでも返事が返せるようにと思ったものです。

その時感じたことは、これからこの地に生活のベースを移すにあたり、子供達がまだ純朴さを残しているこの土地で(もちろん半分は学校の先生に言われてやっている部分はあるのかもしれませんが)自分の子供たちを育てられることは幸せで、安心できることだという思いを持ちました。その思いは今も変わっていません。

ちょうどこのコロナ禍の中5月下旬より学校が再開の準備が始まり、ぽつりぽつりと小中高校生の通学風景を見かけるようになり、6月に入って毎日の風景に代わりました。ちょうど朝の散歩途中に小学生の通学団と行き会う個所があり、久しぶりにそういったシチュエーションに遭遇することになりました。その後何年も経っているけれどどうかなあ。って思いながらすれ違おうとすると通学団長さんから順番に『おはようごさいます』って声をかけてもらえました。勿論こちらも負けてはいません。

この2ヶ月ほど、これまでの生活やそれに伴う日常の風景が一変していましたが、少しづつ新しい生活に戻りつつある中で、朝のその出来事は今日これから始まる一日にとっても力をくれる出来事でしたし、たぶんその小学生たちも、恥ずかしいと言うことよりも、今までの通学風景に戻れてうれしさが勝っているようにも感じれました。

何しろ嬉しい朝の一コマでした。


2020.06.09
振草川の天然鮎

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