人は一生の間、実に多くの人との出会いがある。しかし心に滲みいるほど感化され、影響を受ける人は稀(まれ)にしかいない。
日本のフランス料理の父と呼ばれた「山本直文先生」は、“三鞍の山荘”の今井克宏シェフにとってそんな忘れ得ぬ 人のひとり。


「そばのグラタン」


写真はイメージです
 勝手に先生の弟子達になっている私達は、年に二度程、軽井沢の先生宅を訪ねていた。私が帰国してから続いていたので十年以上にはなる。はじめは、奥様の手作り料理をいただいていたが、いつごろかこちらでメニューをつくり材料を持っていって先生宅の台所で料理をつくった。

 献立は、東京の大庭(巖)さんがつくりあげ、それぞれ仲間に料理をつくるよう指図するのである。ソースなどは職場でつくっていくが、ムッスリーヌなどは型に詰めていって、軽井沢で蒸して食卓に出した。先生は、コース料理を好むので、オードヴルで始まり、メインは肉か魚かどちらかにする。デザートに入って、必ずチーズが用意された。 先生は、チーズは発酵がすすんでいるビァンフェーを好んだ。召しあがるときは、はっきりとした発音ができない弟子には、何回もくり返しビァンフェーフロマージューのR(アール)の発音をさせるのが楽しみでもあったようだ。

 先生のフランス語は、私たち弟子たちにとってBGMである音楽も何もなくとも、ときどき発音されるフランス語を楽しく聞いたものである。帰国後の私は、ある程度、発音には自信があったし会話には困らなかったが、私たちの致命傷は、フランスの歴史や文化についてほとんど勉強をしていなかったことである。言い訳になるが、渡欧した私たちは、職場での仕事上での会話が精一杯で、とても、それ以外のことは、勉強する暇がなかったのである。

 先生のお宅での食事会には、チーズの他に必ず用意されるのがサラダである。先生のお宅の庭からエストラゴンをつんできたり、軽井沢の池にしげっているクレソンをとりにいったりして用意をし、ドレッシング、塩胡椒をしてまぜるのは、先生が着物のそでをおさえながら、「フランスではサラダをつくるのは主人である、このようにまぜあわせて「ファチゲ」させないといけない」と、何回も何回もかきまぜてサラダをつかれさせるのである。ときにはタンポポが入る。すると、先生の発音はエキサイトしてくる。ピサンリはタンポポで、ピィーアンリーは子供が寝小便をしたベッドのことを云うんだ。私たちはレペテ(くり返し発音)をしてみる。「ハハハァハァ、それは寝小便だよ」と大笑いをしてタンポポ入りサラダを、おいしそうに食べる。

 やがてタイミングをみて、先生オリジナル料理が出される。「そばグラタン」である。最初にこのグラタンをいただいたとき、正直云って、こんなにまずいものはないと思った。のび切ったそばが、ベシャメルにからまってグラタン皿にのって焼かれたって感じである。あっけにとられているうちに、「どう、このアイデア」と先生に聞かれたので、不用意にも「おいしいです」と答えてしまったのが間違いである。それから、このグラタンは、メニューの中の一つに加わってしまった。さすがに何回か、改良が加えられたため、おいしくなっていったのだから慣れは恐ろしいものだ。いつの頃からか、ア・ラ・ヤマモトが加わり、信州のどこかの店でメニューにのったということであった。 私もこのグラタンを、なんとかおいしく食べようとトレーニングをしてみたが、むづかしい料理であることには間違いない。

 先生なきあとはつくったこともなければ、食べたこともない。

 

山本直文(なおよし)先生のプロフィール
 明治23年(1890年) 東京生まれ
 大正6年(1917年) 東京帝国大学文学部卒業
 大正10年(1921年) 学習院教授
 昭和26年(1951年) 東京学芸大学教授 フランス語講座主任
 昭和46年(1971年) 日本エスコフィエ協会名誉顧問・パリ司厨士協会
 昭和47年(1972年) エスコフィエ名誉弟子
 昭和50年(1975年) 第一回食生活文化賞大賞受賞
 昭和52年(1977年) 殊勲三等(瑞宝章)
 昭和57年(1982年) 歿 享年92才
 フランス語・フランス料理関係の著作・翻訳は多数に及ぶ。

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