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写真はイメージです
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私が渡欧して2年目、ジュネーブの近く、コペのホテル「ドゥラックコペ」にいたときである。山本先生ご夫妻一行、20名程が、ジュネーブにやってきた。大学の家政科の先生や、若い料理の先生方や、日本料理店の新婚さんご夫妻などのグループであった。私も後年になって料理教室をやり、奥様たち女性のグループを多いときで30名、少なくても20名ぐらいのツアーを組んで旅行をしたが、女性を連れて歩くというのは大変なことである。とにかくみんな「わがまま」である。あたり前のことなのであろうが、1人1人個性があり、自己主張が強すぎる。
そんな経験をしながら先生は、ジュネーブまでやってきたのだろう。先生は、大変につかれていたようだった。迎えにでた私と秋田純平さん(菓子の勉強でスイスに来ていた。この人のえんで私はその後、浜松に来ることになる)は、先生ご夫妻にのんびりしていただこうということで、秋田さんのアルファロメオにご夫妻を乗せて、ローザンヌまで行き、帰路はのんびりとレモン湖のほとりの道路を通
りながらジュネーブに向かった。昼食に寄った湖が直下に見えるレストランで「ペルシュのフライ・ソースタルタル」を食べた。この魚は湖の小魚で、味があっさりとしていて私の大好きな料理である。塩胡椒をして粉をまぶし、サラダオイルで揚げ、レモンを添えてくれる。ソースはタルタルソースである。あっさりした味で何匹でも食べられる。地元の炭酸のきいた白ワインがさらに美味しさを倍加してくれる。先生ご夫妻は、久しぶりに逢った私達とのんびりとドライブをしたため、リラックスされてお疲れがとれたようだ。会計に立った私が支払をすませていると、レジのそばに来た小ぶとりのご主人であろうコック姿の人が、
「キミはフランス語がうまいね、どこの国からきたの?中国人かい?」
といわれるのがいつものパターン。言葉をほめられて、 「日本人です。コックの勉強でコペに来ています」
「へえ、コックなの。ところで今日のペルシュはどうだった?」 「おいしかったですよ。お連れした私の先生ご夫妻も大満足です」
「そうかい。どうだ、よかったら調理場をみていくかい?もう暇になったから」
とご主人は私を調理場に案内してくれた。きれいに片づけがすんでいて、気持ちのよい調理場だ。掃除をしているスペイン人がニコニコとあいさつをしてくれた。コックは、ご主人と若いコックが2名いただけである。テーブルに戻って先生に「調理場までみせてもらいました」と報告すると「日本にいる若いコックが勉強にこちらに来たいのだけどどうかな?この店で雇ってくれないかな。こじんまりとしたこのくらいの店で、勉強させたいね」。
※私達は「ペルミション(労働許可証)」をスイスの国で発行し、この許可証があるから給料をもらい、部屋をあてがってもらって無事に問題もなく働くことができた。最初はベルン市、次にコペという小さな街で働くことができるのも「ペルミション」があるからである。
先生は簡単に云うが、「難しいことです」といいながら私は、もう一度ご主人のところにいって、「日本にいる若いコックが、スイスに勉強に来たいのだけど、ここで雇ってくれないかな?もちろんペルミションをとってもらいたいが」と難しい事と知りながら話をしてみると、「いいよ、私のところで、勉強させてやるよ。ペルミションもとってやる」と簡単に引き受けたのである。もう先生は、そのとき、調理場にやって来て、私たちの会話に入り込んできた。得意の先生のフランス語だが、どうにもご主人には通
じないのである。先生の言葉は「フランス・パリ」の本場のフランス語で、この地「スイス」のジュネーブをはなれたローザンヌの、しかも片田舎のフランス語。あとでわかったことであるが、のんびりとした独特の発音である。私はもうこの地で話をしているから、すっかり慣れてしまった。フランス語学者の先生のフランス語は通
じず、私の方がよく通じるのである。先生には申し訳ないが、私が通訳をして気持ちを伝えてやった。
その後、帰国した先生からはご主人にあてて手紙で申し込み、引きうけてくれたから青年をおくるという手紙も私に届き、ご主人の話を確かめる前に、日本の若いコックはスイスにやってきたのである。おかしいと思っていた私の不安は「図星」になり、その若いコックの「ペルミション」はとれず、この若いコックはペルミションを持たずに勉強するハメになった。村の警察官が坂道をのぼってくるのがみえると、この若いコックはご主人の合図で屋根うらの部屋に逃げこんでいくのである。「働いていないよ」ということになる。この若いコックは、「のんき」なところもあり、これを楽しみながらその後1年近く働いて、給料も途中からつりあげてもらってやっていたのだから、驚きよりあきれてしまった。その若いコックは小路(明)君といい、あの有名な四谷の、一日一組の丸梅(完全予約制料亭)の井上梅さんの「甥っこ」ということである。今は神戸で、コックはとっくに辞めて会社の経営者になっている。
若いコックを一方的におくる先生のおかげで、その後、同じような方法で何十人という若いコックたちがスイスにやってきて「ペルミション」なしで働き、警察のウラをかいて給料をとっていたのだから、荒っぽい武者修行をさせられたものである。今、その若いコックたちが、私のまわりにいる仲間たちなのである。「ペルミション」をもって働いていた私たちより、その後、同じ方法でフランスに渡り、技術をしっかりと勉強してくるのであるから、「きっかけ」とは、何が幸いするかわからないものである。先生のフランス語を現地のフランス語に訳した私は、今だかつて本場のフランス語の発音ができないでいる。先生も苦笑いしていたことであろう。
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