日本のフランス料理界にあって、山本先生は、明治の勝海舟や、西郷隆盛に影響を与えた「佐久間象山」に似ている。私たちの大先輩たちが、仕事を通
じてどうしてもクリアしなければならないのが「フランス語」であった。メニューを書き、初めはふちょうに近い言葉も、その意味が解らねばならぬ
ことに気がつく。調理場において調理の技術が上達していくのは当然で、これについていかないのが、フランス語の理解度であった。料理界の大先輩たちがどのようにして山本先生とお付き合いを始めたのか、それは私にはわからない。
私が、山本先生と初めてお逢いしたのは、私が十八歳のころ。斎藤文次郎さんが富友会という会の会長となり、全日本司厨士協会が出来たころであった。当時、古びた田町の建物の二階で行なわれた山本先生のフランス語教室があった。生徒は三十名程と満員で、半数以上が女性であり、学校の先生方であった。若いコックと、年配のコックとそれぞれ同数であったろうか。月に一回というこの教室は、非常に活気があり、先生の矢のようにとんでくるフランス語に、珍しく興味津々で通
ったのである。半年ほどすると教室に席のゆとりが出はじめ、一年たつと残っている人は、十名程になっていた。
五名になり三名になり、ついに私一人になったそこの頃、教室でのレッスンではなく会を訪れる先生が、原稿やら、本のこと、出版関係のことなど話をされるのを待って、用事がすんだ先生の「カバン」を持って駅まで歩いていく。あるときはTホテルの調理場へ、またはSホテル、Nホテルなど先生は立ち寄られた。小さな街のレストランで働いていた自分にとって、これは最高の勉強の場であった。どのホテルのコック達も皆洗練され、張りと活気があった。調理事務所を訪れる先生を迎える料理長もまぶしい輝きがあり、先生との会話もパリの話や外国の話である。そこはまったくの別
世界であった。
街の中のレストランを好きになり「料理を習うならここだ」と決めていた私には、大変なカルチャーショックであった。洋食屋の料理の旨さを、なんとか早く一人前になって覚えようとしていた私には、別
なる道があることに気づかされた。しかし今は先生のカバン持ちの身分であった。それでも、最初のうちはそれを打ち消す気持ちは大いにあった。「まだ何も覚えていないじゃないか、身分を知れ」「洋食屋の本?すじも知らないじゃないか」。「カレー」一つとっても、ようやく粉を使用しない野菜でつくるスマトラカレーを覚え、有頂天になっていたし、デミ・グラスでつくるシチューのかたまりを目の前にして、「すげえやー」とおどろいている自分が、別
なる世界「フランス料理」を、しかもあの洗練されたホテルのコックさんたちのようになれるだろうか…。といったジレンマにおそわれた。
先生は、そんな私の気持ちを知ってか、先生の訪問先は街のレストランまで幅が広い。Pレストラン、Kレストラン、Mレストラン。なんとそこには、協会誌の中で執筆されている大先輩たちがいるではないか。先生の訪問される用事は、短時間で済む。「フランス語」「料理」のこと、フランス文化のこと、この先輩達の会話は、もう料理人というより別
世界の人たちであった。私のカルチャーショックは、先生の訪問先でどんどんと膨れあがり、ついに破裂するのであった。
この先生のカバン持ちで芽生えた気持ちが、やがて外国に行こうと自分をせかせたのである。フランス語をまず覚えること、これが第一。そのためにはきちんと休日がとれるところ。旅費をためるための給料の安定したところ。この気持ちが、次の職場を決めさせたのである。そこが、渡欧まで働いた銀座八丁目の「千疋屋」であった。この就職には、先生も喜んでくださった。くだもの、チーズ、その他野菜まで勉強するにはすばらしい職場となり、とくにサービス(ウエイター)の仕事を、Tホテル出身の支配人から教えていただいたことも、私の今のオーベルジュにつながっている。
NHKのフランス語を店の屋上で休けい時間に聞くことができたのも、この安定した良き職場であったからだ。ある日の午後、山本先生に立ち寄っていただいた時、そのお相手が秋山徳蔵(天皇陛下の料理人)さんだったのも、あとから聞いたことで知った。先生の行くところ、全て、料理人のいるところであった。
この銀座八丁目の千疋屋は今はない。
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